一斉授業と『学び合い』の違い

久々に『学び合い』の話でもしようかな。

 

というのも,今日,いつも通り授業やってたんですよ。

毎週水曜日はALTとのコラボ授業なんで,まあ,ぼくから見たら一斉授業なんですけど,ゴリゴリスパルタ授業からはほど遠い,ゆったりとしたイングリッシュタイムですね。

この授業,心地良いです。実は毎週楽しみにしてたりします。

 

ゆったりとした授業と言っても,

授業の1週間前には,1時間程度,みっちりALTと打ち合わせします。

「こんなトピックで次の授業やってみようよ」

「あのアクティビティはウケが悪いから,次はこれだ!」

なんて話し合います。

アノぼくから率先して話すんですよ。

 

ぼくのことをよく知る人は,

「へぇ!こうだいでもそういう授業の仕掛けについて考えれるんだ!」と思われるかもしれない。まあ,それくらいぼくは,『』の考え方の合理性に取り憑かれているんですね(笑)

つまるところ,「自然発生的な学び」にしか興味なく,それ以外は「うーん..」なんです。

 

ただ,ぼくも『』に出会う前は,それこそ一斉授業形式しか知らなかったんで,一斉授業の楽しさを知ってます。

特にほら,「計画通り」に授業がうまく進むのが,醍醐味ですよね。

「よっしゃ!予想通りのリアクション!」とかさ。

 

なんだか今は,過去の自分(NZ時代,教育実習)に少し戻ってる感じです。

ある意味,一種の❝帰省❞ですね。

 

 

ただ今日,授業を行ったあるクラスの生徒が,

まあすごく脱線するんですね(笑)

事前に一生懸命考えた計画にうまくハマらないと,

想定外のことが起こる。

 

と言っても,ぼくは(ほぼ)何事に対しても自然発生的なものがめちゃくちゃ好きなんで,そこまで気になりませんでした。

計画から逸れたとしても,何か新しい発見があれば,

それでいいのかなって,個人的には思うタイプ。

その方がゾクゾクする。

だから,脱線しても,実のある雑談をして,

徐々に軌道修正する。

 

でもその時間は,ぼくだけによる授業じゃなくて,

ALTとぼくの2人による協同授業。

 

ぼくは良くても,きっとALTはまた違う価値観を持っている。

ちらっと顔を見ると,だいぶ不安そうなんですね。

そのときに,「あぁ,この状況って,本当はよくないのかな」て思ったんです。

自己中心的な自分が恥ずかしかった。

 

授業後にふと思ったのは,

「もし仮に,あの生徒が欠席していたら,

計画通りに授業は進んでいたりして」という感情でした。

それと同時に,

自然発生的な授業を好まない,毎時みっちりとした計画を立てている一斉授業者も,生徒によって計画が崩れたら,ぼくみたいな感情を抱いているのかな,なんて思いました。

 

計画していたものを計画通りに進ませない生徒を,仮にブレーカーと名付けよう。

 

一斉授業では,ものすごく煙たがれる,特に教師に。

もちろん,その周りの生徒も。

だって,「授業がとんとん拍子に進まない歯がゆさを抱く教師」と「スムーズに進んでくれない授業に苛立ちを抱く生徒」が,事実,一つの部屋にいるわけですから,それも一定数。

そりゃあ,ピリピリとした空気が流れます。

 

でも,『学び合い』は違って,

むしろ,そういうブレーカーはいてほしい存在なんですね。

「いろんな人と折り合いをつける場」であり,「誰一人置いてけぼりにしないことを得だと学ぶ場」であり,そして,そういう多様な人がいてこそ学べるものはものすごく多いんです。

あと,絶対的にマシな「個別最適化された授業」なわけだから,教師も生徒も,特に困ることはない。

 

 

なんてことを,授業後に思いました。

 

結論,一斉授業形式は,

「あの生徒さえいなければ..!」という怖い感情が湧きやすい。

 

ぼくはもうそんな感情,湧かないんですけどね。